2016年1月1日金曜日

あれから71年目の新年に寄せて

twitterでこんな言葉を見かけた。

「三年前(講和)条約ができれば、日本にとって今日にくらべよほど
悪条件のものができたろう。今日われわれは勝者の敗者に対する
平和条約を作ろうとしているのではない。友邦として条約を考えている」
J.ダレス(米国務長官。講和条約締結時)

かつてぼくたちの国は自らの過ちからいちど灰燼に帰した。

そして7年の混乱を経てアメリカと講和条約を結び、ふたたび
世界の一員として迎えてもらった。

かつての敵国が7年で「友邦」として講話し、その後現在に至るまで
アメリカは日本の最大の友邦でいる。

それは自然に行われたことじゃなく、日米双方の努力によって
初めて成し得たことなんじゃないかと思う。

ぼくたちはそれを銘じておくべきじゃないか、
戦後71年目の新年を迎えて、そんな気がしている。

では、また。


2015年10月19日月曜日

この国

こんなツイートがあった。

自国の歴史の汚点に対して、どうしようもない嫌悪感を抱きながら、
それでも愛着を捨てられないというのに共感する。
無謬の日本でないと愛せない、自国の歴史の汚点を知れば、
子供たちも決して日本を愛せないだろう、という発想は、
幼稚としか言いようがない。
(原典:twitter)

同意を覚えた。

ぼくは、この国の過去にも、現在にも瑕疵はあると思っている。
それは、かつて不完全であって、かつ、現在においても不完全だ、
と言い換えてもいいだろう。

この、かつて不完全であり、そして今もなお不完全なこの国は、
この国と同じように不完全なぼくを形作ってくれた。

ぼくはそのことに感謝をしているし、ぼくを形作ってくれたこの国が
永らえることを望んでいる。

それがぼくの愛国心というものかもしれない。

もちろん、不完全なぼくは、この国にも、この国の仕組みにも、
そしてぼく自身にも満足をしていない。
人間というものはおおよそそういうものなのだろう。

ただ、その原因をこの国やこの国の仕組みにのみ荷担することは
適切ではない、そう思っているんだ。

では、また。

2015年8月15日土曜日

あの日から70年

むかし、こんな歌があった。

海ゆかば 水漬く屍

山ゆかば 草生す屍

おおきみの 辺にこそ 死なめ

顧みはせじ

正直言って、ぼくはあまり好きな歌じゃない。

でも、この歌の中にぼくたちへの問いかけが含まれてるんじゃないか、
そんな気がするんだ。

最後の「顧みはせじ」、そこにかつての日本、そして日本人の欠落があった、
そんな気がするんだ。

でも反面、いまのぼくたちは違うと胸を張って言えるだろうか、
そういう危惧も感じる。

ぼくたちはもう「顧みる」ことができるだろうか、
右とか左とか、そんなこと関係なく、過去を、過去の過ちを、
何のフィルターを掛けることもなく顧みることができるだろうか、
そんな危惧を、ふと感じることがあるんだ。

みんなはどう思う?

では、また。


2014年11月25日火曜日

しあわせについて

ある方がSNSで幸福について投稿していた。
それをきっかけに、「しあわせ」についてちょっと考えた。

ぼくは、ひとは一度この世に生を受ければ、
その生を全うする権利がある、そう思っていた。
でもそれは、権利であると同時に義務でもある、
そう思うようになってきていた。

母を失ってからは、特に強く思うようになってきた。
ぼくは、ぼくの生き様が、母の幸福を奪ってしまったのでは
なかったか、ぼくがもっと懸命に生きれば、母はもっと幸福な
人生をもっと長くおくれたのではなかったか、
そんな自責の念から今でも逃れることができない。

正直、何度か「命を絶とう」と思ったこともある。
自分の背負ったものから逃れるために、あるいは、
母への謝罪のために。

それを踏みとどまったのは、たぶん、「生き延びたい」、あるいは
「こんな形で人生を終えたくない」 という生への執着、いわば
エゴだったのだろうと思う。

でも反面それは、それが亡き母への務めであったのではないか、
ともすこし思う。

自らの子が死ぬことを願う母は、この世にはおおよそ居ないだろう、
ならば、ぼくが死を選ぶことは母への裏切りではないか。
そう思って、この世の縁にしがみついている、そんな部分もいまの
ぼくにはある。

ぼくだけではなく、多くの人たちがそんな思いを抱いて生を全うしている
のではないだろうか。ならば、ぼくだけがそれから逃れることは卑怯だ、
そんな気もする。少なくとも、そんな人間として自分の人生を終えたくない。
それもまたエゴかもしれないけれど。

これまで生きてきて、ぼくを憎んでいる人たちは少なからず居るだろう。
ぼくにも、少しはそんな人が居るから。
同様に、ぼくに「生きてて欲しい」、あるいは「死ぬことはないんじゃない?」
と思う人たちも居るだろう。
ぼくにもそんな人たちが居る、ぼくが憎む人よりもっとたくさん
(客観的に見たら、そのこと自体も幸福なことなんだろうね)。

ぼくは、そんな人たちに「なにか」を与えてあげたいと思う
(ぼくが好まざる人たちがそれを受け取ってしまうことには この際目をつむる)、
ぼくも、その人たちに「なにか」を与えてもらっているから。
そうやって生きているから、たぶん、ぼくだけではなく、みんなが。

でも、そうやって突き詰めていくと、生きていくのはときに
なかなかしんどい ものがある。

ならば、そんな義務があるというなら、見返りを求めたっていいんじゃないか。
それが、幸福という 「自分へのプレゼント」 なんじゃないか、そんなことも思うんだ。
もちろん、それを貪欲に求めるあまり、他者のその権利をいたずらに侵害するのは
よくないとは思うけれど。ただ、ある程度は許容されてもいいんじゃないか、
そんな気がする。

という訳で、結論。

ひとはすべからく幸福を求める権利がある。
ただ、それを誰かに与えることも惜しんじゃいけない。
お互い様なんだから。


あー、なんかちょっとすっきりしたかな、
ではまた。





2014年8月25日月曜日

「ステルスってほんとうに要るの?」についての考察

昨日twitterでこんなツイートを見掛けたんだけど。

飛行機は格闘戦してナンボ系オタちょっと来い
(J-10の旋回性能その他、水平面機動がSu-27と
タメ張るという話が 
From twitter


Su-27



J-10

ジェット戦闘機にとってのドッグ・ファイトというのは、「戦艦の白兵戦」みたいなもんなんです。
つまり、他に方法が無いから万策尽きて止むを得ずやる、ということ。
もちろん、生き延びるためにはその能力は必要なのだけれど、
それがかなりのウエイトを占めるようなものではありません。

戦艦にとって火力が重要なように、ジェット戦闘機に要求されるのは敵よりも速く
(その方が安全だから)敵を攻撃できる能力なんですよね。

まあ、そんなことを言わなくても、単発のJ-10戦闘機と双発の大型戦闘機である
Su-27が総合性能で互角である、とはにわかに信じられませんし(^_^;)

とまあ、こういう話なんですが、これって、ステルス戦闘機についての議論に似てない?
とか思ったんですよ。

「ステルス」というのも、敵より速く攻撃することを突き詰めた結果生まれたテクノロジー。
敵に探知されにくいのなら、敵よりも速く攻撃できる可能性が高くなる、
それはジェット戦闘機にとって大きな優位性を持つということですからね。

もちろんステルス機は非常に高価なものだから、そこまでの装備が必要か、
というひとも出てくるでしょうね。

そういう考え方を持っている方のために、すこし卑近な例を挙げてみましょう。
誰でもやったことがあるだろう 「かくれんぼ」 の話です、
たとえば5人でかくれんぼをしたとします。オニがひとりで残りの4人は隠れる側、
そのとき、オニと隠れる側はどちらがきついか、たぶんオニの方がきついですよね。
「かくれんぼ」の場合、隠れる側が全部見つかればオニは交代します。
では、たとえば「オニは5回連続でオニ」というルールだったらどうなるでしょう。
ほとんどの人はそんな 「耐久かくれんぼ」 、やりたくないですよね。

回りくどい言い方で恐縮ですが、「敵がステルス機を保有してこちらは持っていない」
という状況は、いわばこの 「耐久かくれんぼ」 なんですよ。
味方は徐々に疲弊して、消耗していく可能性が高い。

「パイロットの練度が高ければ、従来機でもステルス機に対抗できる」 というひとも
いるでしょうね。
でもそれは突き詰めていくと「竹槍でB29を落とす」みたいな精神論になっちゃうんです。
極端な言い方かもしれないけど、「なら自分がやってみたら?」って話。

たぶん、ほとんどの人は出来ないですよね?ぼくだってもちろん出来ません。
だから、結果的に「出来る人に自らの運命を託す」ことになる。
それは「出来る人が生き延びる」ことが(ある程度)「自分が生き延びる」ということ
につながることを意味するんです。

警察官や消防官を例にとればわかりやすいかもしれません。
ぼくたちは、彼らの存在がぼくたちの安全に直結していることを理解しています。
だから、彼らに理解を示すし、可能な限り、防犯、防火に協力する。

消防官の装備が充実し安全性が高まることに、異を唱えるひとはあまりいません。
それが過剰なものだと非難する人はあまり聞きませんね。
それは、彼らの安全を高めることが、回りまわって自らの安全を高めることを理解している
からです。

でも何故か、自衛官に対してはそういう割合が下がってしまう、本質は同じなのにね。
そこには何らかのバイアスがかかっている、そんなことを考えたことはありませんか?

太平洋戦争末期、日本はB29が巡航する高度で長時間行動できる防空戦闘機を十分
持っていなかった。
それが都市部に住む非戦闘員にどんな結果をもたらしたか、ぼくたちは記憶しているでしょう。

「この平和な日本でそんな戦争は起きない」 と思うかもしれませんね。
十分な外交能力があれば、そんなことにはならない、と。
実際、ぼくも心からそう願ってます。

でも、外交能力には情報収集能力、情報分析能力も含まれるんです。
そして、このふたつの能力は「むしろ戦前より劣っている」と言わざるを得ない。
体制(組織)が戦前よりプアであることを考えれば、そう考える方が妥当でしょう。

「むしろ、その能力を伸ばすべきだ。それこそ平和日本に相応しい」
という人も居るでしょう。ぼくも同感です。でも、それは一朝一夕に
出来ることではありません。どう頑張ったってあと10年、いや20年は
かかるかもしれませんね。ならば、それまでの間は防衛力を整備する
ことが現実的では無いか、と思うんですよ。
防衛費を削減するのはそれからでも遅くは無い、とね。

「防衛力を整備すると周辺諸国を刺激する」 というかもしれませんね。

そういう声が「アジアの一部」からあることはぼくも知っています。
でもその「一部」は「日本の何倍も防衛費を費やしている」し、
その人たちの中には「自国の核心的利益を担保するためには
日本に侵攻することもやむを得ない」とまで言ってる人たちが
居ることもまた知っています。

「治にいて乱を忘れず」 ということばがあります。
ぼくたちは本能的に「乱(外乱)」を嫌悪している、それは自然なことだし、
誰もそれを責めることはできません。
でも、その本能的な嫌悪感が「乱」について考えることを妨げてしまう、
あるいは、それを意識していても、それから目を背けてしまう。
そういう側面があり得ることも覚えておかなければいけないでしょう。

ぼくたちは皆、平和(平穏)を希求しています。
でも、恒久的に平和を保つということはとても難しいことです。
それは、抑止力という危うげなものに依存することも許容しなければ
ならないほど、なのかもしれません。

近代戦において、戦力の3分の1を失うことは敗北を意味する 、という説があります。
そしてその戦力には「兵器の能力」も含まれるのです。

守勢は攻勢より難し 、とも言われます。
守る側は攻める側よりも往々にしてシビアで困難なものなのです。
しかし、我が国は憲法第9条に拠って攻勢に回ることを厳しく戒められています。
とはいえ、この第9条の存在が現在の我が国を築く礎となったことは否めず、
それ故、当面これを堅持していくことは我が国にとって望ましいのでしょう。

不利となる守勢を堅持した上で、なおかつ、敗北しないことを前提とするならば、
相対的に大きな(軍事力を含む)防衛力を目指していくほかはありません。

それは、専守防衛を標榜する我が国にとって、宿命的なものなのです。

防衛力の整備というものは、そういうところまで考えて論じなければいけない
のではないでしょうか。と、ぼくは思うのです。

ちょっと長くなってしまいましたね、お時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。

では、また。



2014年6月22日日曜日

「夢の」で終わらせちゃいけないこと

最近、こんなニュースを目にしたんだ、

燃料電池車普及に向け補助金制度導入へ(NHKニュース)

「2025年ごろまでには、現在は1000万円近い価格になるとされる
燃料電池車の販売価格を、ハイブリッド車と同じ水準に引き下げる」

また、

「燃料の水素を供給する水素ステーションの整備を加速するため、
2020年ごろまでに、建設コストを現在の半分程度にできるよう規制緩和を進める」

というお話。素晴らしいよね、CO2を排出しない燃料電池車が普及するなんて。


でも、「いい年をしたおっさん」のぼくとしては、「そううまく行きますか?」って
いう漠然とした不安のようなものがあるのよ。

たとえば、この引き合いに出されたハイブリッド自動車。急速に普及しているよね。
(結果的に)低燃費だし、従来型の内燃機関動力の自動車より排気ガスもクリーンだ。

でも、EV(電気自動車)も同様な価格帯まで降りてきてるんだけど、残念ながら
ハイブリッド車ほどは普及していない。ハイブリッドよりも歴史がある、いわば枯れた
テクノロジーだし、ハイブリッドのように補助動力装置が不要な分だけ有利な
はずなのに。

その理由は言うまでもないと思う、そう、充電ステーションがまだまだ普及しきっていない
からだ。普及しつつあるとはいえ、まだまだガソリンスタンドとは比較すべくもない
レベルなんだよね。

ハイブリッド車の補助動力装置は通常の内燃機関だ、だから、既存のガソリンスタンド
で気軽に給油できる。その気軽さが普及を後押しした。
というより、ハイブリッド自体、既存のインフラ(ガソリンスタンド)を利用してEVを運用
するために生まれたシステム のようなものだから当然の帰結なんだよね。

燃料電池車の普及の障害と成り得るものはEVと本質的に同じ だと思う。
燃料補給のための水素ステーションが普及しなければEVのように「短距離利用のための
コミューター」としての地位しか得られない。メインに使用できる自家用車、「どこにでも行ける
どこでもドア」のような 魅力的なツールとしての地位は望めない んだ。

「使える場所が限られる」というのは普及のための(心理的な)阻害要因になる。
現在PCの需要が落ちていることを考えればイメージしやすいだろう、
クラウド・コンピューティング等の普及で、コンパクトなスマートフォンやタブレットに
PCとほぼ同じことが出来れば情報端端末としてのPCのアドバンテージは無くなってくる、
だから必然的にPCは売れなくなる、というのが現状なんだよね。

燃料電池車の普及ポイントも、この 「どこでも使える」 ということが重要になってくる。

もちろん、「水素ステーションの整備を加速するため、2020年ごろまでに、建設コストを
現在の半分程度にできるよう規制緩和を進める」というような施策も行われるのだが、
現実的に、「はたしてそれで十分か」 ということなんだよね。

ご承知の方も多いと思うけれど、現在、各地のガソリンスタンドは減少しつつある。
それは自家用車の減少やエコカーの増加による売上の減少、という側面もあるのだけれど、
改正消防法への対応や設備老朽化の対策のためのコストを負担できないという側面も
大きいんだよ。そしてたぶん、水素ステーションのときにも繰り返される。
そうなれば「夢の燃料電池車」もまたEVの轍を踏むことになるだろうね。

「じゃ、一体どうすりゃいいのよ?」ということなんだけど、
ここからは 全くの私見 なので「眉に唾をつける」準備をしておいて欲しいんだけど(笑)、

たとえば、燃料電池車の普及は遅れるかもしれないけれど、
PHVの普及に補助金を付けて、ひとまずPHVをハイブリッド車と同じ価格レベルにする 、
そうするとどうなるか。ハイブリッド車の発展系に過ぎないPHVを普及させる意味が
どこにあるのか、ということなんだけど、それは、PHV車に出来てハイブリッド車に出来ない
ことに使うためなんだ。 PHVはスマートグリッドの一部として機能できる という
メリットがある。


スマートグリッドが普及すれば住宅用太陽光発電の普及が加速する等内需が拡大する
可能性がある。また、家庭用燃料電池の需要が増加して燃料電池のコストダウン
が図れるかもしれない。
家庭用燃料電池にはコスモ石油のような石油元売り企業も参入している。
家庭用燃料電池の普及は、将来水素ステーションを設置するための支援に使うための
原資を蓄積することに資するかもしれない。

水素ステーション等のインフラを整備するにあたっては民間活力をもって行うのがより健全だ。
だけど、そのためには、そのための 体力をつけておく必要がある だろうと思うんだ。

燃料電池はいわば「夢の新エネルギー」だ、だからたいせつに育んでいくべきだと思う。
「夢の新エネルギー」を「夢」のままで終わらせない ために、「地に足をつけたブレーク
スルー」 を目指していくべきだと思うんだけど、どうかな。

では、また。













2014年1月25日土曜日

上に立つ、ということ

先日twitterにこんなツイートがあった。

軍隊上りが欲しい、なんでも言うことを聞きそう、という人には、こう、なんだ。
士官の死因な、後ろから飛んできた弾、ってのかなりあるんやで、って。
( From twitter:MIBkai )

このツイートを見た時、ふと、昔のことを思い出した。
自衛隊で後期教育(職種教育)が終わって部隊配属になる少し前、上級部隊から
新任の中隊長が着任された。その少し後、ぼくはその中隊へ配属された。

中隊長は防大出身で(中隊長としては)まだ若い(当時36歳でいらしたと思う)
三佐だった。いわゆる「エリート」というタイプだったろう。

ある時、先輩の陸曹が中隊長にやや意地の悪い質問をしたそうだ、
「中隊長、中隊長は戦争になったら、弾は前から飛んでくると思いますか、
それとも後ろから飛んでくると思いますか」。

ひとによっては「何を」と気色ばむような質問だと思う、だが、中隊長は平然と
「中隊長は有事の際、最後方で指揮を執る、したがって弾は 前からしか 飛んでこない」
と言ってのけた。

もちろんウィットでそう答えたのだろうが、ぼくはそのことばに「指揮官たるものはそういう感情
までもまっすぐに受け止めねばならない」 という覚悟のようなものを感じた。
その話を聞いた時、30代なかばにしてそのような覚悟を持っていた中隊長を尊敬し、かつ、
そんな上官のもとで勤務できたことを誇りに思ったものだった。

その中隊長は、着任後3年を待たずに元の勤務地に戻っていった。
陸上自衛隊陸上幕僚監部へ。

自衛隊を退職して一般企業に就職して数年後、ぼくが数名の部下を持つ身となったとき、
あのときの中隊長のことば、そのときの心境を思い描いていた。
そして、それがぼくにとっての僥倖であったことをあらためて知った。

ではまた。



2014年1月6日月曜日

シビリアン・コントロールって・・・

きょう、twitter でこんなツイートを見かけた。

本来、軍隊とは、シビリアンの下僕であるべきなのだが?w

はたして、そうなのだろうか。
そういう言い方をすると、いやが上にも誤解されそうな気がするが、
誤解して欲しくないのは、ぼくは 「文民統制」 という仕組みを否定している
のではない、ということ。

ただ、その理由が 「ミリタリーがシビリアンの下僕である」 から、ということに
疑問を抱いているというのだ。

現在の志願制の自衛隊という仕組みで、「ただ下僕となる」ために優秀な人材が
志願してくるとは考えにくい。「単なるドM」に現代のハイテク兵器が使いこなせる
とも思えない。

ならば「有能」な「ミリオタ」ならばどうだ、といえば、こんどは有事の際、
その優秀な「兵器を濫用したい」という衝動を抑えられるということを担保できない
可能性がある。

だとすれば、「シビリアン絶対優位」 を担保した上で有能かつ理性的な人材を
自衛隊に送るためには徴兵制を復活させ、「有能かつ理性的な」優秀な人材を
自衛隊に優先的に送り込む、というシステムが効率的だろう。

だが、はたして、そんなシステムを我が国の国民が支持するだろうか。

それなら、「シビリアンが上」 とかの序列にこだわることなく、ミリタリーとシビリアンが
相互に信頼、尊重した上で ミリタリーのガバナンスをシビリアンが行なう という
より理想的なシビリアン・コントロールの姿を模索する方がはるかに建設的
ではないだろうか。

「コントロール」 というと、完全にコントローラがコントロール対象の上位に
立っているように感じられるが、現代では、むしろ対象から与えられる情報によって
フィードバック制御を行うという手法のほうが一般的となっている、
その方がコントロールの精度を高められるからだ。

軍事においてもこのようなシステムは、  AEGIS や AWACS 、各国陸軍の
C4Iシステム として既に実用化されている。

そのような先進システムを配備されている国家においては、各機、各艦、各車輌が
「優秀なセンサー」足りうべく機能しなければならないと同時に、コントローラ側も
高性能でなければならない。

「どっちが上」とか硬直的な考え方をしていては優秀なコントローラには成り得ない
と思うのだ。

というお話でした、ではまた。





2014年1月2日木曜日

国際関係についての雑感

皆様、あけましておめでとうございます。

昨年もいろんなことがありましたね、特に師走も押し詰まった折りの
安部首相の靖国神社参拝、首相にも思うところがおありだったのでしょうが、
(ぼくも少し思うところがあるのですが、それはまたの機会に)
その参拝に対してアメリカは異例の 「失望」 という強い表現のステートメント
を出しました。

その後(12月30日)アメリカ国務省は、「近隣国との緊張を高めるような行動を
とったことに失望している」 と改めて指摘したうえで、「意見が異なる場合に互い
に正直に話し合えるのも強いパートナーの証しだ」 とも述べました。

これは先の発言のアフターフォローでしょうか、ぼくには後段の 「意見が異なる場合に
互いに正直に話し合える」 という文脈に意味があるのではないかと思えるのです。

「我々はただの二国間関係よりも更に高いステージにいるのだ。だから、発言の
一部だけに囚われないで欲しい」  というメッセージが込められているように感じるのです。

首相の靖国神社参拝の直後、仲井真沖縄県知事が辺野古埋め立てを受け入れました。
その直後、アメリカ国防総省は時期を失せず好意的なコメントを出しました。

移転前倒し、米国防総省「可能なら喜んで」 辺野古承認(asahi.com)

「日本が工事を加速して代替施設が運用可能になれば、我々は喜んで移る」
(普天間早期移転について、アメリカ国防総省高官)

のみならず、「既に県内での訓練は減らしている。県外訓練を拡大できるか
日本と協議を続けるし、間違いなく可能だと思う」
(オスプレイ訓練の県外分散について、国防総省高官)

また、「普天間が進展し、今後はより大きな日米の戦略的課題に注力できる」
(アメリカ政府高官)

等、日本政府や仲井真知事への 「援護射撃」 ともとれるコメントを時期を失せず
発信しています。

これは 「主張すべきことは主張し、評価すべきことは正当に評価する」 という
姿勢の現れではないかと思うのです。

とか思っていたらこんなニュースが・・・

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140101/plc14010112380006-n1.htm

一個人の見解の表明たる「河野談話」さえ、内容について修正を求めてきた
ようなのです。その河野談話を 「我が国の公式見解」 であるかのように
扱っているのもむべなるかな、自国の見解が反映された談話なら、
評価するのは当たり前でしょうね。

米国も韓国も、どちらも我が国の隣国です。なのにこの温度差は何だろう、
それは60年に渡り日米安全保障条約を締結し、不断に対話を続けてきた成果
ではないだろうかと思うのです。

これはあくまでぼくの私見なのですが、我が国が大東亜戦争に突入したきっかけは
真珠湾攻撃でも仏印進駐でもなく、松岡洋右が国際連盟脱退を表明 したとき、
そして国民がそれを支持したときなのではなかっただろうかと思っています。
それは 「我が国は国際社会の批判を受け入れない」 という意思表明だったと
思うからです。

自国の立場を主張することは正当な権利です、でもそれは 批判を真摯に受け入れる
ことではじめて保証される 権利なのです。

ぼくたちはそれを忘れてはいけない。

年頭にあたり、そんなことを考えました。

それでは、また。


















2014年1月1日水曜日

新年のごあいさつ m(_ _;)m

謹んで、新年のお慶びを申し上げます。


ことしの抱負は、

もっと更新する です、

本年もよろしくお願い致しますm(_ _;)m

2013年12月4日水曜日

「国民の声を聞け」

twitterでこんなツイートを見かけたよ。

国民の声を聞け~って言ってる連中が
議員定数削減しろという
これ笑うとこ?
From twitter

確かにそう思う。
「確率」 というものを理解できないのか、
それとも、国会議員の仕事が何なのか知らないのか。

そういうと彼らは「いまの選挙は公平な制度として機能していない」という。
よって、「国会議員は国民の声を吸い上げるという機能を果たしていない」と
(ならば何故、山本太郎氏を「機能していない国会議員」にさせたのだ?
とも思うのだが)。

それでは、選挙という多数決の理論で選ばれる手段を否定する
(信頼しない)人たちが、「デモ」という多数派工作のための
手段で、数の論理で主張を通そうとするのはどうなのだ。

選挙という仕組みによらずに数の論理を機能させようとすれば、
それは「暴力的な革命」を志向せざるを得なくなるはずだ、
そんなやり方は、もうとうの昔にカンボジアで失敗しているだろう。

現在の選挙制度に不完全なところがあることは認める、
だが、これは半世紀以上にわたって改善しようとしてきた結果だ、
半世紀以上にわたっても完全なものに出来ないという道程だ。
我々の一票に格差があることも認めよう、だがそれもその問題に
本気で声を上げてこなかった(あるいは他人任せにしてきた)結果だ。
責任の一端は我々にもあるのだ。無いとは言わせない。

ならば何故、この不完全な世界の中で戦わない?
何故そんな 「俺様ルール」で戦おうとする?

まさか、そんな「わがままなこども」のような戦いが、「あえて声を上げない」
静かに思索する人たちに届くと思ってはいないだろう。





2013年11月30日土曜日

敵を知り己を知らば

きょう、こんなツイートを見かけた。

「戦争を叫んだり、あるいは、他のヨーロッパ諸国に
抵抗するように説いたようないきのよい政治家も、
実際には誰ひとりとして、フランス軍の現状について
顧慮してはいなかったのである」
――A.J.P.テイラー(フランス革命戦争を評して)
twitter:リアリズムと防衛のBOT

ぼくのブログのタイトル「巧言令色鮮し仁」というのは、
孔子の論語に出てくることばなんだけど、
孫子の兵法にも有名なことばがある。

「敵を知り己を知らば百戦して危うからず」 ということばだ。

これはその後に、「敵を知り己を知らざれば十戦に一勝を得」 と続き、
ここまで来れば既にご想像通り、最後に、
「敵を知らず己を知らざれば一戦とも危うし」 と結ばれる。

うん、「敵情の収集と同じくらい正確な現状認識も必要」 だよね、
なんて漫然と考えてたらこんなニュースが・・・

「中国戦闘機が緊急発進」=防空圏で「日米機確認」と主張-新華社報道

中国が一方的に設定した防空識別圏に空自、米軍ののべ14機(米軍の
偵察機2機と空自のE767、F15等10機の計12機という情報もある)が
中国空軍機がスクランブル発進した、というニュースだ。

仮に発表通り当初12機の軍用機が当該空域に居たとすれば、
P3、EP3、E767の非武装の偵察機、電子戦機に、1機あたり3機、
合計9機の制空戦闘機が護衛に付いた、という見方があり、
それ自体は特に問題とは思われない。なにしろ件の 防空識別圏 には
我が国の領空(尖閣諸島上空)も含まれている のだから。

ただ、これを「相手の見方」 に立って見ると、若干意味合いが変わってくるのだ。

ご承知の通り、我が国も中国も防空レーダー網が整備されている。
したがって哨戒飛行をせずとも領空に侵入しようとする航空機を(ある程度)探知できる。
しかも現代のレーダーは極めて高性能であり、飛来する機体の高度、速度、機種まで
レーダースクリーンに表示される。
今回も、こちらの機種、機数は事前に察知されていた であろう。

ただし、その様に高性能な防空レーダーシステムにも限界はある。
例えば、飛来する戦闘機がF15であることは識別できるが、
それが 制空戦闘機のF15Jなのか、戦闘爆撃機のF15Eなのかの特定はできない
(あくまで「特定できない」ということだ、事前に収集したデータによって予測は出来るだろう)。
また、F15J戦闘機だと特定できたとしても、それが自衛用の対空兵装であるのか、
爆撃用の対地兵装であるのか、という段階はレーダーではとても識別できないだろう。

「要撃戦闘機であるF15Jに対地攻撃をさせるなどナンセンスだ」 という意見もあるだろう。
ぼくも同意見だ、何ら誘導機能の無い通常爆弾を、爆撃計算機能を持たない ほぼ純粋に
制空戦闘に特化されたF15J に搭載して爆撃をさせるなど 正気の沙汰ではないとさえ
思っている。

ただ、これは 我々の見方 だ、相手の立場に立てば、自国の領土を絶対に防衛するという
任務を持っている以上、ほぼゼロの可能性でも対応せざるを得ない。ましてや、今回の
ように強大な空域管制能力を持つE767機が随伴している となれば、その可能性も
相対的に増大してくる。
したがって、偵察の意味でも戦闘機部隊をスクランブル発進させて確認せざるを得ない。

そうして、ひとつの 空域に彼我双方の戦闘機が混在する 状況となれば、否応にも
相応の緊張状態が現出する。今回中国側が何機の要撃機を出してきたかは不明だが、
中国側発表の12機とこちら側の情報の14機が正確だとすれば、その差の2機は
「増援の戦闘機」 だろう、ということは当初の 想定より以上の緊張状態が生まれた
ことは想像に難くない。

今回の飛行計画は 「状況分析のための偵察的なオペレーション」 だったのだろう。
であれば、3機の偵察機に9機の護衛戦闘機という編成は 脅威的に過ぎる のでは
なかっただろうか。ご承知の通り、E767は強大な空域管制能力を有している。
ならば、該当空域に進入する護衛戦闘機は4機程度に止め、その代わりに空域外に
増援とする戦闘機を予め(訓練名目で)哨戒飛行させておく、というプランは無かったか。
そういう戦術的な拙さは無かっただろうか、もしそういう側面があったのならば、
それは 準備不足 に起因するものではなかったか。

今回、米軍の偵察機に米軍の戦闘機は随伴していない。だとすればそれは
「偶発的な武力衝突にエスカレートさせない」 ための非常にコントロールされた措置
だと思う。さらにそれは、米軍と航空自衛隊が高度な連携能力、強固な信頼関係を
有している という証明となり、それは 日米安保条約が有効に機能している ということの
裏付けであるという、明確なメッセージともなり得る。

であるとするならば、今回のオペレーションは単なる挑発行為ではなく、それだけ重要な
メッセージを込めたいわば プレゼンテーション だったはずなのだ。それならば、いや、
であればこそ、事前に周到な準備をするべきでは無かっただろうか。

敵(潜在的な脅威)を知ることは重要だ。だが、己を知る(省みる)ことも同じだけ
重要だと思うのだ。 「敵を知り己を知らざる」ことは、徒に勝ち目を下げる こととなる。

などと考えていたら、アメリカは、今回の中国側のスクランブル発進については
一切触れていない(ということは、否定も肯定もしていない )、日本政府は公式に
否定 した 。この3ヶ国の温度差は何を意味しているのだろう。

なんだろう、いやな胸騒ぎがする・・・























2013年11月26日火曜日

「国民の知る権利」についての雑感

以前、何気なくTVを見てたら「特定秘密保護法案」を「治安維持法」になぞらえて
報じていた(「なんちゃらペディア」ってコーナーね)。

治安維持法、かつて多くの人々を謂われない罪に問い、投獄した悪法
であったと言われている。

ご存じの方も多いと思うのだが、ある法案を「治安維持法の再来」と論じられるのは
しばしばある。例えば、平成11年に施行された「犯罪捜査のための通信傍受に関する
法律(通信傍受法)」、「破壊活動防止法(破防法)」が挙げられる。

そのどちらの法令も、その運用によっては国民の権利を阻害するおそれが高いが、
それ故か、概ね適正に運用されている。破壊活動防止法に到っては、あの、多くの
死傷者を出すに至らしめた数々の事件を惹起したオウム真理教(現アーレフ)にさえ
適用されなかったほど厳格に運用されているほどだ。

だが、果たしてこの「特定秘密保護法案」が、そのような厳格な運用を担保し得る
法案なのだろうか、それがこの件に関して論じることを逡巡させていた。

そんな折り、twitterでこんなツイートを見かけた。

三年前のあの事件のことを引き合いに、特定秘密保護法案に対して、
ああだこうだと言う人がいるが、当時、秘密でもなんでもないものを
隠蔽しようとした人たちは今、そのことには何も触れず屁理屈を付けて
反対しているのはどうなんでしょう。反対するなら真面目にしてほしい
(原典:twitter)

投稿したのは一色正春氏、元海上保安官の「sengoku38」氏といったほうが
いいだろうか。氏がツイートで「あの映像」を「秘密でもなんでもないもの」と表現した
のは、「国民には知る権利がある」という前提に立ってのことだろう。

だが、あの「秘密でもなんでもないもの」が公開された結果どうなっただろうか。
尖閣諸島の問題が提起され、まず、東京都が尖閣の島を購入しようとした。
その後、当時の民主党政権があの島を国が購入し、国有地化した。
それによって、それまでグレーゾーンだった尖閣諸島海域は日中両国の間の
領土問題として顕在化してしまった。

もちろん尖閣諸島が我が国固有の領土であることに異を唱えるつもりはない。
が、あの海域が日中両国が「互いにあえて触れなかった懸案事項」であって、
「あの映像」公開がその「懸案事項」を「領土問題」として顕在化してしまった
ということは否めないのでは無いだろうか。

確かに基本的に「国民には知る権利がある」。
だが、反面、「権利の行使は義務の履行に拠って担保される」ことも我々は
知っているはずだ。
何かを「知る権利を行使する」ということは、その結果に対する「義務を負う」
ことになるのでは無いだろうか。

では、今回の尖閣諸島海域の問題に対して我々国民は何かの「義務を履行する」
ことは可能だろうか、おそらく、何らかの有効な手段を提供することは出来ないはずだ。

「義務の履行」を担保できなければ、「権利の行使」も(ある程度の)制約を受ける。
それは受け入れざるを得ないのではないだろうか。そんなことも思うのだ。

「国家があなた達のために何が出来るかを問うのではなく、あなたが国家のために
何が出来るかを問うて欲しい」
(ジョン・F・ケネディ、1961年の大統領就任演説より)

(なお、ケネディは演説の最後を「私達があなた達に求めることと同じだけの
高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲しい」 と結んでいる)

それでは、また。
















2013年11月19日火曜日

こどもたちの未来

アイスランドで地熱発電が盛んに利用されていることで、賛否両論から議論が出ているらしい。

曰く、地盤沈下が深刻となる、水質汚染も問題だ、と。

ぼく個人の見解としては、そういう被害の発生やローインパクトに十分留意した上で、
地熱発電はもっと普及すべきだと思う。
地熱発電にはまだ発展する余地がある。次世代のマグマ地熱発電が実用化されれば、
原子力発電をリプレースできるレベルの発電量を確保できるという試算もあるくらいだ。

しかし、それを研究開発するためには、地熱発電についてのコンセンサスが必要だ。
そのためにも、地熱発電はより普及すべきだと思うのだ。

もちろん地熱発電だけが有力な選択肢でないことは論を俟たない。
北欧ではバイオメタンが普及している国もある、バスがバイオメタンで走っているほどに。
北見市長が提唱している炭層メタンも研究の余地があるかもしれない。
我が国の林業の衰退を思えば、間伐材を使用した木質バイオマス発電も普及の余地が
あるだろう。設置条件が合えば洋上風力発電の普及余地もまだあるだろうし、
パネルの改良による発電効率の向上くらいしか改善の余地がないと思われがちな
太陽光発電でも追尾式発電やパネルの配置で、さらに発電効率が改善できる余地はある。
長期的に見ればメタンハイドレートの利用も非常に有望視されている。

ただ、脱原発ありきで「じゃ火力でいいじゃん、GTCCならイケるじゃん」ていうのは違う
と思うのだ。GTCC(ガスタービン・コンバインド・サイクル)式火力発電が非常に効率的
であることは理解できる。
しかし、燃料であるLNGを輸入し、CO2を排出しながら発電する、そういう意味では
火力発電も原子力発電も本質的には変わらない。ならば、たとえば燃料コストを
下げるために、バイオメタンを利用してLNGと混燃させるということを模索すべく、
研究開発をすべきではないだろうか。
それに地熱発電や風力発電、太陽光発電等の再生可能エネルギー発電を
組み合わせればトータルの発電コストは低減できるはずだろう。

だが、そういう声はほとんど聞かれない。LNGの需要急増による年間数兆円もの
コストを「安全のためのコスト」として多くの人たちが容認している。

そんな人たちは往々にして、脱原発を「こどもたちの未来」のためと主張する。
だが「こどもたち」のことを思うのであれば、彼らの未来のための投資も重要なはずだ。
そして、そのためには、そのための財源を確保する必要がある。

その現実を論じない脱原発は、真にこどもたちの未来のためになるとは思えないのだ。
自らの不安を紛らすためにこどもたちの未来を引き合いに出しているようにさえ思えて
しまうのだ。

2013年11月12日火曜日

軍隊と消防

猛烈な威力の台風30号がフィリピンを襲った。
まずもって、犠牲となられた方々のご冥福と、被災された方々が一日もはやく
復興を遂げられることをお祈りいたします。

この件でtwitterでこんなツイートを見かけた。全国で講演をされている危機管理
専門家の方だそうである。

以下引用

フィリピンが台風の被害で惨状の憂き目に遭っている。
毎回の事だが、日本政府は緊急援助隊の派遣が遅れた。
医療班が3日経った今日、現地入りする。外務省は何を
やっているのか!自衛隊の派遣を考慮中と言うが、
消防隊の派遣が先だ。自衛隊を送りたいがために
消防隊を送らなかったとしたら、許せない。
https://twitter.com/asaikuniomi/status/400016035761651712

引用終わり

確かにもっともな話だ、自衛隊よりも消防の方が災害救助については専門家
であるから。また、救命救急に関しては消防よりも医療関係者の方が専門的である。
したがって、自衛隊(他国においては軍隊)よりも医療関係者、消防職員を優先的に
投入すべきである、といえる。
にもかかわらず、なぜ往々にして軍事関係が投入されるのか。
それは軍事組織は「自己完結性」を有する、ということに尽きるだろう。

医療、消防、警察、そのすべては専門性において軍事組織(我が国においては自衛隊)
を凌駕する。だがしかし、それは国家、自治体といったインフラによって支えられている。
彼らが「すわ鎌倉」と被災地に赴いても手持ちの資機材、燃料等が枯渇すれば
たちまち立ち往生してしまう。せっかく投入したリソースが塩漬けになってしまうのだ。
今回災害緊急援助隊の投入に3日を要してしまったのも、ホスト国の受け入れ体制に
ついてのコーディネイトに時間を要した、ということなのであろう。

対して、自衛隊や軍隊は、ある程度の自己完結性を持っている。
国家レベルの有事の際には既存のインフラが機能しないことは容易に想定される。
だから、自衛隊にも資材、燃料等の物資を輸送する輸送部隊や、資機材が故障した際、
自前で整備するための整備部隊、行動する拠点を構築、維持するための施設部隊等
の「後方支援部隊」が存在する。
そのような自己完結性は被災地支援においても有効に機能するのだ。

東日本震災の際、米軍が甚大な浸水被害を被った仙台空港をごく短期間で
仮復旧させたことは記憶に新しいが、彼らはまず空挺降下して復旧に着手した。
そこまでの即応性は他の組織には望めない。

米軍がこのような災害支援において、海兵隊が優先的に投入されるのも、
海兵隊が即応性を追求するために自己完結性が最も高い、という理由であろう。

言うまでもなく、被災地において人命救助は最優先事項である。
だが同様に、消防や医療が活動を継続するためのインフラの復旧、
あるいは仮設インフラの構築も重要なことであるはずだ。

「自衛隊(軍隊)は軍事組織」という固定概念に捉えられていては、
ときに本質を見誤ってしまう、と思うのだが、どうだろうか。

それでは、また。














2013年11月6日水曜日

検閲

昨日、NHKでこんな番組を見た。
クローズアップ現代(2013/11/5) 知られざる”同胞監視”

終戦直後、GHQが行なっていた検閲の事実を明らかにするという内容だった。
いくつか興味深い事実が報じられていた。例えば検閲の目的、
最終的にそれは「共産主義勢力の動向監視」に移行していったのだが、
検閲開始当初のそれは「闇市(闇経済)の動向監視」であったということ。

占領政策の円滑の遂行のためであろうが、「飢餓状態の国民に対して円滑な
占領(再建)は行なえない」という現実的な意思決定であったのだと思う。

このような興味深い情報が提示されていた番組だったが、ひとつ気がかりな点が
あった。その事実が終始否定的に論じられていたのだ。

GHQのCCD(民間検閲支隊)に勤め、郵便物の検閲に携わったひとが、
「自分の生活のために闇市を報告し、結果、同胞が逮捕される」という
良心の呵責に苛まれ、2ヶ月で退職した、とか、
事実を語り継ぐために当時の同僚に協力を呼びかけたが、誰も協力しようと
しなかった、とか。

反面、共産主義の動向に関しては積極的に報告され、
その報酬は実績に応じて上昇していった、というように報じられている。

当時行われた検閲は忌むべき行為であり、その結果検束された方々にも同情を
禁じ得ない。彼らの多くは万止むを得ず闇経済に頼らざるを得なくなった訳であり、
その原因は国が始めた無謀な戦争だった。いわば、彼らの多くは
「加害者であると同時に被害者」であったのだから。
しかし、そのような犠牲を産んだにせよ、それが食料管理の適正化を目的としており、
結果的に国民の飢餓状態の解消を早期に収束させることに資したであろうことは
想像に難くない。

すべての物事は功罪両面から見られなければならないと思う。
「目的のためには手段を選ばない」というのは当然忌むべき考え方なのだが、
手段の瑕疵が目的の重要性によって斟酌され、その正当性が相対的に評価される、
という考え方は時として容認されるべきではないだろうか。

誤解の無いようにしておきたいのだが、日本国憲法第21条第二項において
「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
と明確に禁止されており、ぼく個人もそれは容認できない。

公権力による検閲、盗聴は思想統制につながる危険性を孕んでいる、
思想統制による「全体主義の悲劇」をぼくらはよく知っているはずだ。
だが反面、印象操作による「思考の偏り」も同じように危険であることも
知っている。

「特定秘密保護法案」が上程されようとし、NHK経営委員の人事に政府が
介入しようとしているこの時期に番組が放送されたことを残念に思う。
本来ならば功罪両面から掘り下げるべき問題だと思うのだが、クローズアップ現代
という30分枠になぜ納めたのだろう。NHKスペシャル程度のボリュームがあれば
もっと中立的に報じられたと思うのに。

いや、邪推はやめよう。印象操作となるおそれがある。








2013年11月5日火曜日

閑話休題(小咄その一)

ちょっと前、昔の自衛隊の話をしました。
昔の自衛官は、いまとすこし違っていた気がします。
なにか「防人(さきもり)」を演じているような感じ、
もっともぼく自身がそうであったからそう感じていたのかもしれませんが。

いま振り返ると、それは、いまのように自衛官という職業が十分な市民権を得て
いなかったようなこと、自衛隊が、ときとしてこの国にとっての一種の「鬼子(おにご)」
のような受け入れ方をされていたことにすねていたのかもしれません。

当時、多くの国民にとって自衛官は「国を護る人たち」ではなく「台風や洪水の時に
土のうを積みにくる人たち」といったイメージがあったように思います。

災害派遣活動は国民の生命、財産を守るための重要な任務です。それは間違い
ありませんが、ともすれば、それが主任務というように捉えられてしまいがちなことが、
まだ若かったぼくには抵抗がありました。

そういうような背景もあって、今にして思えば不謹慎なところもあると思いますが、
ときに災害派遣の際の出来事を笑い話のように話したことがあります。
もちろん、「かなり盛った」話もありましたけれどね。

たとえば、こんなような話。

あるとき、大雨で自衛隊が災害派遣に出動しました。
ただ、そのときは折悪しく現地に到着した際には大雨被害のピークは
過ぎていました(緊急避難的な側面の強い災害派遣活動においても、
自衛隊は基本的に独自の判断で出動することはできません。
都道府県知事の要請を受けてからしか出動することはできないのです)。

活動中、地元の青年が声を荒らげました。

「自衛隊は何で今頃になってのこのこ出てくるんだよ!」

それを聞いていたお婆さんが

「そんなこと言うもんでねえ、自衛隊さんはようやってくれとる。
見てみい、あんな作りかけの飛行機でも来てくれとるでねえか」

お婆さんの指差す先には・・・




お婆さん・・・お言葉は誠にありがたいのですが、 あれは完成品 です(´・ω・`)

みたいなヽ(=´▽`=)ノ





2013年11月1日金曜日

にっぽん(のある人たちの)昔ばなし

そういえば先日、「とある参議院議員のセンセイ」が台風で被災した大島を
視察なされて、そのスタッフ様のおひとりが災害派遣活動中の自衛官をご覧になりながら

 「人を殺したいって言って自衛隊になってる人もいるんですかね」

というやや失礼(まあ「礼儀」というものがハナから無ければ「失礼」ということばは成り立たない
訳なんですけどね)なおことばを仰せになられたらしいのですが、
皆様いかがお過ごしでしょうか。

いま、自衛隊(自衛官)はマスコミも含め、国民に概ね好意的に受け入れられている
のですが、実は昔は残念ながらそこまででもありませんでした。
きょうはその頃のお話を致しましょう。

ぼくが勤務していた30年ほど前、あるいはぼくの先輩方が入隊された40年ほど前、
自衛隊の志願者は地方の次男、三男がかなりの比率を占めていました。

ぼくが部隊に配属されたとき、先輩方から

「何?たじま長男なの?それも名古屋から自衛隊に入ったの?
おまえよっぽどどうしようもない奴だったんだな」

などという容赦無い エールを贈られた ものです(そこまで言わなくてもねえ・・・
実際どちらかというとそういうタイプだけど)。

また当時はソヴィエト連邦解体前、東西冷戦が(細々と)続いていた時期で、
そのせいか、国内の景気がまだ良かったからか、自衛隊(特に陸上自衛隊)は
「万年人手不足」のような状態でした。
たとえば、陸自の定員が18万から16万に削減されるとき、「これは防衛力の
低下につながるのではないか」と質問した記者に防衛庁の広報担当官が
「いまでも15万5千しか充足してなくて16万になってもまだ定員割れなんですが」
と居直るようなぐらい。

そんな状況だからなのかどうかかはわかりませんが、試験を受けて昇任しようという
隊員が少ないような時期もあり、部隊長や先任は昇任希望者を募るにも腐心していた
ようです。たとえば・・・

中隊事務室

「T士長、部外研修に参加しないかね、勤務を休んで研修に行けるぞ」
「(仕事休めるのは魅力だな)ああ、はい」
「よし、じゃあ今度の研修はT士長に行ってもらおう、社会勉強もたいせつだからな」
「了解(よし、たまには羽根を伸ばしてくるか)」

研修当日、夕刻、営内班居室

「ただいまー、あー楽しかった」
「あ、T士長、おかえりなさい」
「ああ、ただいま・・・ん?」

(ベッドの上に見覚えのない徽章が・・・)

中隊事務室

「T士長、入ります。自分のベッドにこの様なものが」
「おお、T士長!候補生指定おめでとう!頑張りなさい!」
「えええっ!?」

というような 「アメリカの軍隊ものコメディ」 みたいなドラマ(暗闘)が
ときに繰り広げられていたらしいですwww


このような時代を経て、自衛隊が現在の市民権を得るに至ったのは、
カンボジアPKOに始まり、イラクやゴラン高原でのPKO、PKF活動、
国内での阪神淡路大震災、東日本大震災に代表される災害支援活動で、
ぼくたちの先輩方、後輩たちの、ときに身命を賭した普段の努力が実った
結果、彼らの汗と(ときに涙の)結晶なのです。

そのような努力を、国民の代表の協力者たちに省みられることがなかったことを、
ぼくは悔しく思います。悲しく思います。

それでは、また。





















2013年10月29日火曜日

ブログはじめました

isao tajima と申します。
思う所あって、ブログをはじめてみることにしました。

ふだんはGoogle+で他愛もないことを書きなぐっているのですが、
このブログでも、やはり他愛もないことを書きなぐることになるでしょうね(^_^;)

お暇でしたら、お気軽におつきあいくださいm(_ _)m