2015年10月19日月曜日

この国

こんなツイートがあった。

自国の歴史の汚点に対して、どうしようもない嫌悪感を抱きながら、
それでも愛着を捨てられないというのに共感する。
無謬の日本でないと愛せない、自国の歴史の汚点を知れば、
子供たちも決して日本を愛せないだろう、という発想は、
幼稚としか言いようがない。
(原典:twitter)

同意を覚えた。

ぼくは、この国の過去にも、現在にも瑕疵はあると思っている。
それは、かつて不完全であって、かつ、現在においても不完全だ、
と言い換えてもいいだろう。

この、かつて不完全であり、そして今もなお不完全なこの国は、
この国と同じように不完全なぼくを形作ってくれた。

ぼくはそのことに感謝をしているし、ぼくを形作ってくれたこの国が
永らえることを望んでいる。

それがぼくの愛国心というものかもしれない。

もちろん、不完全なぼくは、この国にも、この国の仕組みにも、
そしてぼく自身にも満足をしていない。
人間というものはおおよそそういうものなのだろう。

ただ、その原因をこの国やこの国の仕組みにのみ荷担することは
適切ではない、そう思っているんだ。

では、また。

2015年8月15日土曜日

あの日から70年

むかし、こんな歌があった。

海ゆかば 水漬く屍

山ゆかば 草生す屍

おおきみの 辺にこそ 死なめ

顧みはせじ

正直言って、ぼくはあまり好きな歌じゃない。

でも、この歌の中にぼくたちへの問いかけが含まれてるんじゃないか、
そんな気がするんだ。

最後の「顧みはせじ」、そこにかつての日本、そして日本人の欠落があった、
そんな気がするんだ。

でも反面、いまのぼくたちは違うと胸を張って言えるだろうか、
そういう危惧も感じる。

ぼくたちはもう「顧みる」ことができるだろうか、
右とか左とか、そんなこと関係なく、過去を、過去の過ちを、
何のフィルターを掛けることもなく顧みることができるだろうか、
そんな危惧を、ふと感じることがあるんだ。

みんなはどう思う?

では、また。