2014年11月25日火曜日

しあわせについて

ある方がSNSで幸福について投稿していた。
それをきっかけに、「しあわせ」についてちょっと考えた。

ぼくは、ひとは一度この世に生を受ければ、
その生を全うする権利がある、そう思っていた。
でもそれは、権利であると同時に義務でもある、
そう思うようになってきていた。

母を失ってからは、特に強く思うようになってきた。
ぼくは、ぼくの生き様が、母の幸福を奪ってしまったのでは
なかったか、ぼくがもっと懸命に生きれば、母はもっと幸福な
人生をもっと長くおくれたのではなかったか、
そんな自責の念から今でも逃れることができない。

正直、何度か「命を絶とう」と思ったこともある。
自分の背負ったものから逃れるために、あるいは、
母への謝罪のために。

それを踏みとどまったのは、たぶん、「生き延びたい」、あるいは
「こんな形で人生を終えたくない」 という生への執着、いわば
エゴだったのだろうと思う。

でも反面それは、それが亡き母への務めであったのではないか、
ともすこし思う。

自らの子が死ぬことを願う母は、この世にはおおよそ居ないだろう、
ならば、ぼくが死を選ぶことは母への裏切りではないか。
そう思って、この世の縁にしがみついている、そんな部分もいまの
ぼくにはある。

ぼくだけではなく、多くの人たちがそんな思いを抱いて生を全うしている
のではないだろうか。ならば、ぼくだけがそれから逃れることは卑怯だ、
そんな気もする。少なくとも、そんな人間として自分の人生を終えたくない。
それもまたエゴかもしれないけれど。

これまで生きてきて、ぼくを憎んでいる人たちは少なからず居るだろう。
ぼくにも、少しはそんな人が居るから。
同様に、ぼくに「生きてて欲しい」、あるいは「死ぬことはないんじゃない?」
と思う人たちも居るだろう。
ぼくにもそんな人たちが居る、ぼくが憎む人よりもっとたくさん
(客観的に見たら、そのこと自体も幸福なことなんだろうね)。

ぼくは、そんな人たちに「なにか」を与えてあげたいと思う
(ぼくが好まざる人たちがそれを受け取ってしまうことには この際目をつむる)、
ぼくも、その人たちに「なにか」を与えてもらっているから。
そうやって生きているから、たぶん、ぼくだけではなく、みんなが。

でも、そうやって突き詰めていくと、生きていくのはときに
なかなかしんどい ものがある。

ならば、そんな義務があるというなら、見返りを求めたっていいんじゃないか。
それが、幸福という 「自分へのプレゼント」 なんじゃないか、そんなことも思うんだ。
もちろん、それを貪欲に求めるあまり、他者のその権利をいたずらに侵害するのは
よくないとは思うけれど。ただ、ある程度は許容されてもいいんじゃないか、
そんな気がする。

という訳で、結論。

ひとはすべからく幸福を求める権利がある。
ただ、それを誰かに与えることも惜しんじゃいけない。
お互い様なんだから。


あー、なんかちょっとすっきりしたかな、
ではまた。





2014年8月25日月曜日

「ステルスってほんとうに要るの?」についての考察

昨日twitterでこんなツイートを見掛けたんだけど。

飛行機は格闘戦してナンボ系オタちょっと来い
(J-10の旋回性能その他、水平面機動がSu-27と
タメ張るという話が 
From twitter


Su-27



J-10

ジェット戦闘機にとってのドッグ・ファイトというのは、「戦艦の白兵戦」みたいなもんなんです。
つまり、他に方法が無いから万策尽きて止むを得ずやる、ということ。
もちろん、生き延びるためにはその能力は必要なのだけれど、
それがかなりのウエイトを占めるようなものではありません。

戦艦にとって火力が重要なように、ジェット戦闘機に要求されるのは敵よりも速く
(その方が安全だから)敵を攻撃できる能力なんですよね。

まあ、そんなことを言わなくても、単発のJ-10戦闘機と双発の大型戦闘機である
Su-27が総合性能で互角である、とはにわかに信じられませんし(^_^;)

とまあ、こういう話なんですが、これって、ステルス戦闘機についての議論に似てない?
とか思ったんですよ。

「ステルス」というのも、敵より速く攻撃することを突き詰めた結果生まれたテクノロジー。
敵に探知されにくいのなら、敵よりも速く攻撃できる可能性が高くなる、
それはジェット戦闘機にとって大きな優位性を持つということですからね。

もちろんステルス機は非常に高価なものだから、そこまでの装備が必要か、
というひとも出てくるでしょうね。

そういう考え方を持っている方のために、すこし卑近な例を挙げてみましょう。
誰でもやったことがあるだろう 「かくれんぼ」 の話です、
たとえば5人でかくれんぼをしたとします。オニがひとりで残りの4人は隠れる側、
そのとき、オニと隠れる側はどちらがきついか、たぶんオニの方がきついですよね。
「かくれんぼ」の場合、隠れる側が全部見つかればオニは交代します。
では、たとえば「オニは5回連続でオニ」というルールだったらどうなるでしょう。
ほとんどの人はそんな 「耐久かくれんぼ」 、やりたくないですよね。

回りくどい言い方で恐縮ですが、「敵がステルス機を保有してこちらは持っていない」
という状況は、いわばこの 「耐久かくれんぼ」 なんですよ。
味方は徐々に疲弊して、消耗していく可能性が高い。

「パイロットの練度が高ければ、従来機でもステルス機に対抗できる」 というひとも
いるでしょうね。
でもそれは突き詰めていくと「竹槍でB29を落とす」みたいな精神論になっちゃうんです。
極端な言い方かもしれないけど、「なら自分がやってみたら?」って話。

たぶん、ほとんどの人は出来ないですよね?ぼくだってもちろん出来ません。
だから、結果的に「出来る人に自らの運命を託す」ことになる。
それは「出来る人が生き延びる」ことが(ある程度)「自分が生き延びる」ということ
につながることを意味するんです。

警察官や消防官を例にとればわかりやすいかもしれません。
ぼくたちは、彼らの存在がぼくたちの安全に直結していることを理解しています。
だから、彼らに理解を示すし、可能な限り、防犯、防火に協力する。

消防官の装備が充実し安全性が高まることに、異を唱えるひとはあまりいません。
それが過剰なものだと非難する人はあまり聞きませんね。
それは、彼らの安全を高めることが、回りまわって自らの安全を高めることを理解している
からです。

でも何故か、自衛官に対してはそういう割合が下がってしまう、本質は同じなのにね。
そこには何らかのバイアスがかかっている、そんなことを考えたことはありませんか?

太平洋戦争末期、日本はB29が巡航する高度で長時間行動できる防空戦闘機を十分
持っていなかった。
それが都市部に住む非戦闘員にどんな結果をもたらしたか、ぼくたちは記憶しているでしょう。

「この平和な日本でそんな戦争は起きない」 と思うかもしれませんね。
十分な外交能力があれば、そんなことにはならない、と。
実際、ぼくも心からそう願ってます。

でも、外交能力には情報収集能力、情報分析能力も含まれるんです。
そして、このふたつの能力は「むしろ戦前より劣っている」と言わざるを得ない。
体制(組織)が戦前よりプアであることを考えれば、そう考える方が妥当でしょう。

「むしろ、その能力を伸ばすべきだ。それこそ平和日本に相応しい」
という人も居るでしょう。ぼくも同感です。でも、それは一朝一夕に
出来ることではありません。どう頑張ったってあと10年、いや20年は
かかるかもしれませんね。ならば、それまでの間は防衛力を整備する
ことが現実的では無いか、と思うんですよ。
防衛費を削減するのはそれからでも遅くは無い、とね。

「防衛力を整備すると周辺諸国を刺激する」 というかもしれませんね。

そういう声が「アジアの一部」からあることはぼくも知っています。
でもその「一部」は「日本の何倍も防衛費を費やしている」し、
その人たちの中には「自国の核心的利益を担保するためには
日本に侵攻することもやむを得ない」とまで言ってる人たちが
居ることもまた知っています。

「治にいて乱を忘れず」 ということばがあります。
ぼくたちは本能的に「乱(外乱)」を嫌悪している、それは自然なことだし、
誰もそれを責めることはできません。
でも、その本能的な嫌悪感が「乱」について考えることを妨げてしまう、
あるいは、それを意識していても、それから目を背けてしまう。
そういう側面があり得ることも覚えておかなければいけないでしょう。

ぼくたちは皆、平和(平穏)を希求しています。
でも、恒久的に平和を保つということはとても難しいことです。
それは、抑止力という危うげなものに依存することも許容しなければ
ならないほど、なのかもしれません。

近代戦において、戦力の3分の1を失うことは敗北を意味する 、という説があります。
そしてその戦力には「兵器の能力」も含まれるのです。

守勢は攻勢より難し 、とも言われます。
守る側は攻める側よりも往々にしてシビアで困難なものなのです。
しかし、我が国は憲法第9条に拠って攻勢に回ることを厳しく戒められています。
とはいえ、この第9条の存在が現在の我が国を築く礎となったことは否めず、
それ故、当面これを堅持していくことは我が国にとって望ましいのでしょう。

不利となる守勢を堅持した上で、なおかつ、敗北しないことを前提とするならば、
相対的に大きな(軍事力を含む)防衛力を目指していくほかはありません。

それは、専守防衛を標榜する我が国にとって、宿命的なものなのです。

防衛力の整備というものは、そういうところまで考えて論じなければいけない
のではないでしょうか。と、ぼくは思うのです。

ちょっと長くなってしまいましたね、お時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。

では、また。



2014年6月22日日曜日

「夢の」で終わらせちゃいけないこと

最近、こんなニュースを目にしたんだ、

燃料電池車普及に向け補助金制度導入へ(NHKニュース)

「2025年ごろまでには、現在は1000万円近い価格になるとされる
燃料電池車の販売価格を、ハイブリッド車と同じ水準に引き下げる」

また、

「燃料の水素を供給する水素ステーションの整備を加速するため、
2020年ごろまでに、建設コストを現在の半分程度にできるよう規制緩和を進める」

というお話。素晴らしいよね、CO2を排出しない燃料電池車が普及するなんて。


でも、「いい年をしたおっさん」のぼくとしては、「そううまく行きますか?」って
いう漠然とした不安のようなものがあるのよ。

たとえば、この引き合いに出されたハイブリッド自動車。急速に普及しているよね。
(結果的に)低燃費だし、従来型の内燃機関動力の自動車より排気ガスもクリーンだ。

でも、EV(電気自動車)も同様な価格帯まで降りてきてるんだけど、残念ながら
ハイブリッド車ほどは普及していない。ハイブリッドよりも歴史がある、いわば枯れた
テクノロジーだし、ハイブリッドのように補助動力装置が不要な分だけ有利な
はずなのに。

その理由は言うまでもないと思う、そう、充電ステーションがまだまだ普及しきっていない
からだ。普及しつつあるとはいえ、まだまだガソリンスタンドとは比較すべくもない
レベルなんだよね。

ハイブリッド車の補助動力装置は通常の内燃機関だ、だから、既存のガソリンスタンド
で気軽に給油できる。その気軽さが普及を後押しした。
というより、ハイブリッド自体、既存のインフラ(ガソリンスタンド)を利用してEVを運用
するために生まれたシステム のようなものだから当然の帰結なんだよね。

燃料電池車の普及の障害と成り得るものはEVと本質的に同じ だと思う。
燃料補給のための水素ステーションが普及しなければEVのように「短距離利用のための
コミューター」としての地位しか得られない。メインに使用できる自家用車、「どこにでも行ける
どこでもドア」のような 魅力的なツールとしての地位は望めない んだ。

「使える場所が限られる」というのは普及のための(心理的な)阻害要因になる。
現在PCの需要が落ちていることを考えればイメージしやすいだろう、
クラウド・コンピューティング等の普及で、コンパクトなスマートフォンやタブレットに
PCとほぼ同じことが出来れば情報端端末としてのPCのアドバンテージは無くなってくる、
だから必然的にPCは売れなくなる、というのが現状なんだよね。

燃料電池車の普及ポイントも、この 「どこでも使える」 ということが重要になってくる。

もちろん、「水素ステーションの整備を加速するため、2020年ごろまでに、建設コストを
現在の半分程度にできるよう規制緩和を進める」というような施策も行われるのだが、
現実的に、「はたしてそれで十分か」 ということなんだよね。

ご承知の方も多いと思うけれど、現在、各地のガソリンスタンドは減少しつつある。
それは自家用車の減少やエコカーの増加による売上の減少、という側面もあるのだけれど、
改正消防法への対応や設備老朽化の対策のためのコストを負担できないという側面も
大きいんだよ。そしてたぶん、水素ステーションのときにも繰り返される。
そうなれば「夢の燃料電池車」もまたEVの轍を踏むことになるだろうね。

「じゃ、一体どうすりゃいいのよ?」ということなんだけど、
ここからは 全くの私見 なので「眉に唾をつける」準備をしておいて欲しいんだけど(笑)、

たとえば、燃料電池車の普及は遅れるかもしれないけれど、
PHVの普及に補助金を付けて、ひとまずPHVをハイブリッド車と同じ価格レベルにする 
そうするとどうなるか。ハイブリッド車の発展系に過ぎないPHVを普及させる意味が
どこにあるのか、ということなんだけど、それは、PHV車に出来てハイブリッド車に出来ない
ことに使うためなんだ。 PHVはスマートグリッドの一部として機能できる という
メリットがある。


スマートグリッドが普及すれば住宅用太陽光発電の普及が加速する等内需が拡大する
可能性がある。また、家庭用燃料電池の需要が増加して燃料電池のコストダウン
が図れるかもしれない。
家庭用燃料電池にはコスモ石油のような石油元売り企業も参入している。
家庭用燃料電池の普及は、将来水素ステーションを設置するための支援に使うための
原資を蓄積することに資するかもしれない。

水素ステーション等のインフラを整備するにあたっては民間活力をもって行うのがより健全だ。
だけど、そのためには、そのための 体力をつけておく必要がある だろうと思うんだ。

燃料電池はいわば「夢の新エネルギー」だ、だからたいせつに育んでいくべきだと思う。
「夢の新エネルギー」を「夢」のままで終わらせない ために、「地に足をつけたブレーク
スルー」 を目指していくべきだと思うんだけど、どうかな。

では、また。













2014年1月25日土曜日

上に立つ、ということ

先日twitterにこんなツイートがあった。

軍隊上りが欲しい、なんでも言うことを聞きそう、という人には、こう、なんだ。
士官の死因な、後ろから飛んできた弾、ってのかなりあるんやで、って。
( From twitter:MIBkai )

このツイートを見た時、ふと、昔のことを思い出した。
自衛隊で後期教育(職種教育)が終わって部隊配属になる少し前、上級部隊から
新任の中隊長が着任された。その少し後、ぼくはその中隊へ配属された。

中隊長は防大出身で(中隊長としては)まだ若い(当時36歳でいらしたと思う)
三佐だった。いわゆる「エリート」というタイプだったろう。

ある時、先輩の陸曹が中隊長にやや意地の悪い質問をしたそうだ、
「中隊長、中隊長は戦争になったら、弾は前から飛んでくると思いますか、
それとも後ろから飛んでくると思いますか」

ひとによっては「何を」と気色ばむような質問だと思う、だが、中隊長は平然と
「中隊長は有事の際、最後方で指揮を執る、したがって弾は 前からしか 飛んでこない」
と言ってのけた。

もちろんウィットでそう答えたのだろうが、ぼくはそのことばに「指揮官たるものはそういう感情
までもまっすぐに受け止めねばならない」 という覚悟のようなものを感じた。
その話を聞いた時、30代なかばにしてそのような覚悟を持っていた中隊長を尊敬し、かつ、
そんな上官のもとで勤務できたことを誇りに思ったものだった。

その中隊長は、着任後3年を待たずに元の勤務地に戻っていった。
陸上自衛隊陸上幕僚監部へ。

自衛隊を退職して一般企業に就職して数年後、ぼくが数名の部下を持つ身となったとき、
あのときの中隊長のことば、そのときの心境を思い描いていた。
そして、それがぼくにとっての僥倖であったことをあらためて知った。

ではまた。



2014年1月6日月曜日

シビリアン・コントロールって・・・

きょう、twitter でこんなツイートを見かけた。

本来、軍隊とは、シビリアンの下僕であるべきなのだが?w

はたして、そうなのだろうか。
そういう言い方をすると、いやが上にも誤解されそうな気がするが、
誤解して欲しくないのは、ぼくは 「文民統制」 という仕組みを否定している
のではない、ということ。

ただ、その理由が 「ミリタリーがシビリアンの下僕である」 から、ということに
疑問を抱いているというのだ。

現在の志願制の自衛隊という仕組みで、「ただ下僕となる」ために優秀な人材が
志願してくるとは考えにくい。「単なるドM」に現代のハイテク兵器が使いこなせる
とも思えない。

ならば「有能」な「ミリオタ」ならばどうだ、といえば、こんどは有事の際、
その優秀な「兵器を濫用したい」という衝動を抑えられるということを担保できない
可能性がある。

だとすれば、「シビリアン絶対優位」 を担保した上で有能かつ理性的な人材を
自衛隊に送るためには徴兵制を復活させ、「有能かつ理性的な」優秀な人材を
自衛隊に優先的に送り込む、というシステムが効率的だろう。

だが、はたして、そんなシステムを我が国の国民が支持するだろうか。

それなら、「シビリアンが上」 とかの序列にこだわることなく、ミリタリーとシビリアンが
相互に信頼、尊重した上で ミリタリーのガバナンスをシビリアンが行なう という
より理想的なシビリアン・コントロールの姿を模索する方がはるかに建設的
ではないだろうか。

「コントロール」 というと、完全にコントローラがコントロール対象の上位に
立っているように感じられるが、現代では、むしろ対象から与えられる情報によって
フィードバック制御を行うという手法のほうが一般的となっている、
その方がコントロールの精度を高められるからだ。

軍事においてもこのようなシステムは、  AEGIS AWACS 、各国陸軍の
C4Iシステム として既に実用化されている。

そのような先進システムを配備されている国家においては、各機、各艦、各車輌が
「優秀なセンサー」足りうべく機能しなければならないと同時に、コントローラ側も
高性能でなければならない。

「どっちが上」とか硬直的な考え方をしていては優秀なコントローラには成り得ない
と思うのだ。

というお話でした、ではまた。





2014年1月2日木曜日

国際関係についての雑感

皆様、あけましておめでとうございます。

昨年もいろんなことがありましたね、特に師走も押し詰まった折りの
安部首相の靖国神社参拝、首相にも思うところがおありだったのでしょうが、
(ぼくも少し思うところがあるのですが、それはまたの機会に)
その参拝に対してアメリカは異例の 「失望」 という強い表現のステートメント
を出しました。

その後(12月30日)アメリカ国務省は、「近隣国との緊張を高めるような行動を
とったことに失望している」 と改めて指摘したうえで、「意見が異なる場合に互い
正直に話し合えるのも強いパートナーの証しだ」 とも述べました。

これは先の発言のアフターフォローでしょうか、ぼくには後段の 「意見が異なる場合に
互いに正直に話し合える」 という文脈に意味があるのではないかと思えるのです。

「我々はただの二国間関係よりも更に高いステージにいるのだ。だから、発言の
一部だけに囚われないで欲しい」  というメッセージが込められているように感じるのです。

首相の靖国神社参拝の直後、仲井真沖縄県知事が辺野古埋め立てを受け入れました。
その直後、アメリカ国防総省は時期を失せず好意的なコメントを出しました。

移転前倒し、米国防総省「可能なら喜んで」 辺野古承認(asahi.com)

「日本が工事を加速して代替施設が運用可能になれば、我々は喜んで移る」
(普天間早期移転について、アメリカ国防総省高官)

のみならず、「既に県内での訓練は減らしている。県外訓練を拡大できるか
日本と協議を続けるし、間違いなく可能だと思う」
(オスプレイ訓練の県外分散について、国防総省高官)

また、「普天間が進展し、今後はより大きな日米の戦略的課題に注力できる」
(アメリカ政府高官)

等、日本政府や仲井真知事への 「援護射撃」 ともとれるコメントを時期を失せず
発信しています。

これは 「主張すべきことは主張し、評価すべきことは正当に評価する」 という
姿勢の現れではないかと思うのです。

とか思っていたらこんなニュースが・・・

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140101/plc14010112380006-n1.htm

一個人の見解の表明たる「河野談話」さえ、内容について修正を求めてきた
ようなのです。その河野談話を 「我が国の公式見解」 であるかのように
扱っているのもむべなるかな、自国の見解が反映された談話なら、
評価するのは当たり前でしょうね。

米国も韓国も、どちらも我が国の隣国です。なのにこの温度差は何だろう、
それは60年に渡り日米安全保障条約を締結し、不断に対話を続けてきた成果
ではないだろうかと思うのです。

これはあくまでぼくの私見なのですが、我が国が大東亜戦争に突入したきっかけは
真珠湾攻撃でも仏印進駐でもなく、松岡洋右が国際連盟脱退を表明 したとき、
そして国民がそれを支持したときなのではなかっただろうかと思っています。
それは 「我が国は国際社会の批判を受け入れない」 という意思表明だったと
思うからです。

自国の立場を主張することは正当な権利です、でもそれは 批判を真摯に受け入れる
ことではじめて保証される 権利なのです。

ぼくたちはそれを忘れてはいけない。

年頭にあたり、そんなことを考えました。

それでは、また。


















2014年1月1日水曜日

新年のごあいさつ m(_ _;)m

謹んで、新年のお慶びを申し上げます。


ことしの抱負は、

もっと更新する です、

本年もよろしくお願い致しますm(_ _;)m