それをきっかけに、「しあわせ」についてちょっと考えた。
ぼくは、ひとは一度この世に生を受ければ、
その生を全うする権利がある、そう思っていた。
でもそれは、権利であると同時に義務でもある、
そう思うようになってきていた。
母を失ってからは、特に強く思うようになってきた。
ぼくは、ぼくの生き様が、母の幸福を奪ってしまったのでは
なかったか、ぼくがもっと懸命に生きれば、母はもっと幸福な
人生をもっと長くおくれたのではなかったか、
そんな自責の念から今でも逃れることができない。
正直、何度か「命を絶とう」と思ったこともある。
自分の背負ったものから逃れるために、あるいは、
母への謝罪のために。
それを踏みとどまったのは、たぶん、「生き延びたい」、あるいは
「こんな形で人生を終えたくない」 という生への執着、いわば
エゴだったのだろうと思う。
でも反面それは、それが亡き母への務めであったのではないか、
ともすこし思う。
自らの子が死ぬことを願う母は、この世にはおおよそ居ないだろう、
ならば、ぼくが死を選ぶことは母への裏切りではないか。
そう思って、この世の縁にしがみついている、そんな部分もいまの
ぼくにはある。
ぼくだけではなく、多くの人たちがそんな思いを抱いて生を全うしている
のではないだろうか。ならば、ぼくだけがそれから逃れることは卑怯だ、
そんな気もする。少なくとも、そんな人間として自分の人生を終えたくない。
それもまたエゴかもしれないけれど。
これまで生きてきて、ぼくを憎んでいる人たちは少なからず居るだろう。
ぼくにも、少しはそんな人が居るから。
同様に、ぼくに「生きてて欲しい」、あるいは「死ぬことはないんじゃない?」
と思う人たちも居るだろう。
ぼくにもそんな人たちが居る、ぼくが憎む人よりもっとたくさん
(客観的に見たら、そのこと自体も幸福なことなんだろうね)。
ぼくは、そんな人たちに「なにか」を与えてあげたいと思う
(ぼくが好まざる人たちがそれを受け取ってしまうことには この際目をつむる)、
ぼくも、その人たちに「なにか」を与えてもらっているから。
そうやって生きているから、たぶん、ぼくだけではなく、みんなが。
でも、そうやって突き詰めていくと、生きていくのはときに
なかなかしんどい ものがある。
ならば、そんな義務があるというなら、見返りを求めたっていいんじゃないか。
それが、幸福という 「自分へのプレゼント」 なんじゃないか、そんなことも思うんだ。
もちろん、それを貪欲に求めるあまり、他者のその権利をいたずらに侵害するのは
よくないとは思うけれど。ただ、ある程度は許容されてもいいんじゃないか、
そんな気がする。
という訳で、結論。
ひとはすべからく幸福を求める権利がある。
ただ、それを誰かに与えることも惜しんじゃいけない。
お互い様なんだから。
あー、なんかちょっとすっきりしたかな、
ではまた。