2014年8月25日月曜日

「ステルスってほんとうに要るの?」についての考察

昨日twitterでこんなツイートを見掛けたんだけど。

飛行機は格闘戦してナンボ系オタちょっと来い
(J-10の旋回性能その他、水平面機動がSu-27と
タメ張るという話が 
From twitter


Su-27



J-10

ジェット戦闘機にとってのドッグ・ファイトというのは、「戦艦の白兵戦」みたいなもんなんです。
つまり、他に方法が無いから万策尽きて止むを得ずやる、ということ。
もちろん、生き延びるためにはその能力は必要なのだけれど、
それがかなりのウエイトを占めるようなものではありません。

戦艦にとって火力が重要なように、ジェット戦闘機に要求されるのは敵よりも速く
(その方が安全だから)敵を攻撃できる能力なんですよね。

まあ、そんなことを言わなくても、単発のJ-10戦闘機と双発の大型戦闘機である
Su-27が総合性能で互角である、とはにわかに信じられませんし(^_^;)

とまあ、こういう話なんですが、これって、ステルス戦闘機についての議論に似てない?
とか思ったんですよ。

「ステルス」というのも、敵より速く攻撃することを突き詰めた結果生まれたテクノロジー。
敵に探知されにくいのなら、敵よりも速く攻撃できる可能性が高くなる、
それはジェット戦闘機にとって大きな優位性を持つということですからね。

もちろんステルス機は非常に高価なものだから、そこまでの装備が必要か、
というひとも出てくるでしょうね。

そういう考え方を持っている方のために、すこし卑近な例を挙げてみましょう。
誰でもやったことがあるだろう 「かくれんぼ」 の話です、
たとえば5人でかくれんぼをしたとします。オニがひとりで残りの4人は隠れる側、
そのとき、オニと隠れる側はどちらがきついか、たぶんオニの方がきついですよね。
「かくれんぼ」の場合、隠れる側が全部見つかればオニは交代します。
では、たとえば「オニは5回連続でオニ」というルールだったらどうなるでしょう。
ほとんどの人はそんな 「耐久かくれんぼ」 、やりたくないですよね。

回りくどい言い方で恐縮ですが、「敵がステルス機を保有してこちらは持っていない」
という状況は、いわばこの 「耐久かくれんぼ」 なんですよ。
味方は徐々に疲弊して、消耗していく可能性が高い。

「パイロットの練度が高ければ、従来機でもステルス機に対抗できる」 というひとも
いるでしょうね。
でもそれは突き詰めていくと「竹槍でB29を落とす」みたいな精神論になっちゃうんです。
極端な言い方かもしれないけど、「なら自分がやってみたら?」って話。

たぶん、ほとんどの人は出来ないですよね?ぼくだってもちろん出来ません。
だから、結果的に「出来る人に自らの運命を託す」ことになる。
それは「出来る人が生き延びる」ことが(ある程度)「自分が生き延びる」ということ
につながることを意味するんです。

警察官や消防官を例にとればわかりやすいかもしれません。
ぼくたちは、彼らの存在がぼくたちの安全に直結していることを理解しています。
だから、彼らに理解を示すし、可能な限り、防犯、防火に協力する。

消防官の装備が充実し安全性が高まることに、異を唱えるひとはあまりいません。
それが過剰なものだと非難する人はあまり聞きませんね。
それは、彼らの安全を高めることが、回りまわって自らの安全を高めることを理解している
からです。

でも何故か、自衛官に対してはそういう割合が下がってしまう、本質は同じなのにね。
そこには何らかのバイアスがかかっている、そんなことを考えたことはありませんか?

太平洋戦争末期、日本はB29が巡航する高度で長時間行動できる防空戦闘機を十分
持っていなかった。
それが都市部に住む非戦闘員にどんな結果をもたらしたか、ぼくたちは記憶しているでしょう。

「この平和な日本でそんな戦争は起きない」 と思うかもしれませんね。
十分な外交能力があれば、そんなことにはならない、と。
実際、ぼくも心からそう願ってます。

でも、外交能力には情報収集能力、情報分析能力も含まれるんです。
そして、このふたつの能力は「むしろ戦前より劣っている」と言わざるを得ない。
体制(組織)が戦前よりプアであることを考えれば、そう考える方が妥当でしょう。

「むしろ、その能力を伸ばすべきだ。それこそ平和日本に相応しい」
という人も居るでしょう。ぼくも同感です。でも、それは一朝一夕に
出来ることではありません。どう頑張ったってあと10年、いや20年は
かかるかもしれませんね。ならば、それまでの間は防衛力を整備する
ことが現実的では無いか、と思うんですよ。
防衛費を削減するのはそれからでも遅くは無い、とね。

「防衛力を整備すると周辺諸国を刺激する」 というかもしれませんね。

そういう声が「アジアの一部」からあることはぼくも知っています。
でもその「一部」は「日本の何倍も防衛費を費やしている」し、
その人たちの中には「自国の核心的利益を担保するためには
日本に侵攻することもやむを得ない」とまで言ってる人たちが
居ることもまた知っています。

「治にいて乱を忘れず」 ということばがあります。
ぼくたちは本能的に「乱(外乱)」を嫌悪している、それは自然なことだし、
誰もそれを責めることはできません。
でも、その本能的な嫌悪感が「乱」について考えることを妨げてしまう、
あるいは、それを意識していても、それから目を背けてしまう。
そういう側面があり得ることも覚えておかなければいけないでしょう。

ぼくたちは皆、平和(平穏)を希求しています。
でも、恒久的に平和を保つということはとても難しいことです。
それは、抑止力という危うげなものに依存することも許容しなければ
ならないほど、なのかもしれません。

近代戦において、戦力の3分の1を失うことは敗北を意味する 、という説があります。
そしてその戦力には「兵器の能力」も含まれるのです。

守勢は攻勢より難し 、とも言われます。
守る側は攻める側よりも往々にしてシビアで困難なものなのです。
しかし、我が国は憲法第9条に拠って攻勢に回ることを厳しく戒められています。
とはいえ、この第9条の存在が現在の我が国を築く礎となったことは否めず、
それ故、当面これを堅持していくことは我が国にとって望ましいのでしょう。

不利となる守勢を堅持した上で、なおかつ、敗北しないことを前提とするならば、
相対的に大きな(軍事力を含む)防衛力を目指していくほかはありません。

それは、専守防衛を標榜する我が国にとって、宿命的なものなのです。

防衛力の整備というものは、そういうところまで考えて論じなければいけない
のではないでしょうか。と、ぼくは思うのです。

ちょっと長くなってしまいましたね、お時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。

では、また。